センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 咲けないひまわり


夏の入り口は 日々忙しくて


ひまわりの種を撒くのが遅れた。



先月末になって ようやく葉が大きくなって


咲く日を楽しみにしていた。



しかし


朝、見に行くと 大きくなったひまわりは


根こそぎ抜かれていた。






あ〜、しまった!


ひまわりと書いたプレートを


立てておくべきだった。



近所に 毎朝近辺を清掃して下さる方がいて


うちの空き地に隣接した空き地の草取りを


頻繁にして下さる。



ついでに うちの空き地の分も


抜いて下さることがあって、恐縮するのだが



前に コスモスを抜かれてしまったことが


あった。


これから育って咲くだろうというところだ。



花がないので わからないのは仕方ない。


親切でして下さったことなのだ。



今回のひまわりも同じことだ。


大きくなってきた「雑草」を



隣地の草取りのついでに 抜いて下さった、


というそれだけのことである。



けれども


思いのほか 私はがっかりしてしまった。



あの黄色い花が咲いて


私の気持ちを明るくしてくれるのを


期待していたのである。



このがっかりが 1日の始まりを暗くした。



ついてない、というのか


なんだか どっと疲れが押し寄せて来た。



その人が 悪意のある、嫌な人ならば


かえって怒りのやり場がある。



しかし、そうではない。


とても良い方なのである。



今どき、他人が放置している土地まで


きれいに除草してくれる人がどこにいる?



真夏の暑い朝も


箒と塵取りを持って あちこち清掃される。



いつも、頭が下がる思いで見ている。



親切ってむずかしいなぁ、と思う。


親切意外の何ものでもないのだけれど



それが、誰かを落ち込ませることもある。



生まれつきおせっかいな私は


ふと自分も同じかも知れない、と


反省したりする。



良かれと思ってしたことが 仇になる。


ちゃんと線引きが必要なのだ。



やれやれ、と思いながら


それでもまだ救えるかも知れない、と



しなびてしまったひまわりを


ふかふかの土を敷いて 植え替えてみた。



力があれば 咲いてくれるかも知れない。



だめならだめで


咲けないひまわりを 教訓にしようと


我が身を振り返る休日なのだった。