センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

カテゴライズしない選択 されない選択


HSP(ハイリーセンシティブパーソン)


この言葉がこんなにメジャーになったのは



タイトルに


「繊細さん」というワードが入った本が


発売されたことがきっかけだろうか。



初めて 新聞広告でこのタイトルを見て


その内容を見たとき、



私も思わず買おうかと思った。



自分のことも 人のことも気になるし


考えすぎて疲れてしまう。



HSPのセルフチェックをやってみたら


見事に「HSPの傾向があります。」と出た。



HSPは障害でもないし、病気でもない。


気質を指す言葉だ。



たぶん、元々は


視覚や聴覚、嗅覚など 感覚器官が敏感で



それ故に辛い人たちのことを指したのでは?


と思うのだけれど。





HSPのセルフチェックは12項目あった。


現代人なら 当てはまる項目は多そうだ。



いつの世も


人間関係は煩わしく 悩みの種だし


生きづらさは 誰だって抱えてる。




「繊細さん」というワードの入った本が


こんなに売れること自体、


その定義に当てはまる人が多いということ。



それは特別なことではないってことでは?


と私は思うのだ。



障害でもない、病気でもない、


「繊細さん」というところが



世の中の生きづらい人たちに


はまった ということではないのかと思う。





精神障害とか発達障害でさえ


誤診が多いと言われているのだから



気質は気質でいいのではないかと思う。



人間はカテゴライズするのが好きだから


何にでも名前を付けて


どんどん分類していくけれど



それが良いことなのかどうかは


それぞれの選択次第なのかもしれない。




私がそんなことを思ったのは



今、体力的にキツくて


それが精神的なキツさにつながって


少々ブルーだったのだけれど



年齢などの差はあれど


同じスケジュール、同じ課題をこなすのだ。


私だけがキツいわけはない。



そんな当たり前のことが見えなくなっていた


自分に気がついたからだ。




自分だけがキツいとか、辛いとか


それは自分のことしか見えていないから。




そんな自分にまた落ち込んだり、悩んだり。


眠れなくなる夜もある。




キツくても辛くても口に出さない人もいるし


許容量は人それぞれだ。


生きづらさだって 人それぞれ。




心は簡単に数値化できない。





「みんな違って みんないい。」


という金子みすゞの言葉は


すんなり受け入れられるのに



カテゴライズすることや されることに


こだわるのはなぜなんだろう。




私は


「繊細さん」に分類されることを


選択しないことにした。



   その選択は自分でできる。




   私は こういう自分でいく。




それぞれが 


それぞれの選択をすればいいのだ。






風鈴の音色に涼しさを感じたり


蝉しぐれを歌に詠んだり



それは 日本人の繊細さ。


侘び寂びの世界も 日本人の繊細さ。



私たちはそれ故の幸せも感じている。



視点を変えると 見える世界も変わる。


理解なんてされなくてもいいのだ。



生きづらさを抱えるからこそ


私たちは人間らしいのだ。




不器用だけれど


私は こういう私でいく。