センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 リスク


子どもの頃、いとこたちといっしょに


川へ遊びに行った。



車でないと行けない、遠くの川で


母や伯母たちもいっしょだった。



その川が、どんな川で 


どんなふうに遊んだのか 



まるで覚えていない。



覚えているのは


その川で 女の子が溺れて亡くなった、


ということ。ただ、それだけだ。



夏休みでにぎやかだったその川は


救急車や警察官がやって来て、


騒然となった。



母も叔母も真っ青になり、


子どもたちを急かして


慌てて帰途に着いたのだった。



子どもがその川で溺れて亡くなった、という


その衝撃的な事実だけが


その場にいた人たちの記憶に刻まれた。



母は、認知症になった今でも



その亡くなった子を連れて来ていた人が


その子の保護者ではなかったことと


地面にへたり込んでいた姿を覚えていた。






子どもが小学生になったとき


先生の有志が企画するキャンプに参加した。



そこには、広くて大きな川があった。


次男は浮き輪をつけて泳いでいたが



あっという間に川の中ほどまで流された。


はっと気づいて、次男に叫んだとき


近くにいた先生が元の場所に戻してくれた。



水は最高の遊び相手だけれど


時に最強に怖い遊び相手になる。



そのキャンプから戻った夜、



川の中州でキャンプをしていた人たちが


増水した川の水に流され、


何人かが亡くなった、という報道を知った。



ぞっとした。人ごとではない、と思った。


世間はこぞって非難したけれど。



誰だって、リスクについて考える。


けれど、自分が本当に経験したことでないと


その怖さについて思い知ることはない。



楽しむための場所において


常に緊張感を持って、そこに居ることは


誰にも容易いことではない。



たった30センチの水深だって


人は溺れるのである。



そんなことは想像もできないのに


起きたことは非難される。



こうした事故があるたびに


誰かの責任ばかり追及する声が挙がるが



全てのリスクをゼロにすることは


できないのだ。



そのトラブルに遭遇するのは


明日の私たちかも知れないし



今までトラブルを免れたのは


単なる偶然だったのかも知れない。



そこだけは 心に留めて置こうと思う。



ただ、誰かを責め立てるだけで


悲しい事故が防げるのなら


いくらでも責めればいいけれど



そこから何が生まれるの?


私たちの正義は 誰かを救えるの?