センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 その後のいちご


前に、いちごの実から種を取って育てる、


という話を書いた。




その後のいちごはどうなったのか、と言うと




こんな感じから




今現在はこんな感じになった。


無事に育ってくれている。



こういうのを見ると、


育つ芽があればちゃんと育つのだなと思う。



適度に水分が補給され


お陽さまの光が十分に注がれ


程よく見守られれば自分の力で育っていく。



子育てと同じだな、と思う。



ない芽を必死で育てようとしても無理だけど


ある芽をちゃんと見て 見守っていけば


自分の力で育っていく。



ない芽を「無限の可能性がある」と信じて


空回りしてきた自分を思う。



昔、学生の時の講義で 


児童心理学専門の先生が言った。



「子どもには無限の可能性があると言うが


 そんなものはない。


 人間の可能性は有限だ。」


「誰でも努力すれば東大に行けるか、


 誰でも努力すれば


 オリンピックに出られるか、と言えば


 Noだ。


 可能性は無限じゃない。


 それを知らなければいけない。」



他のことは大して覚えていないのに


この言葉はよく覚えている。



よく覚えているのに


私はやっぱり「無限の可能性」を探した。



自分の有限性には気づくのに


子どものことには気づけなかった。



親は


永遠に転ばぬ先の杖でいることはできない。



子どもには子どもの人生があり


子どもには自分で育つ力と権利がある。



そういうことに気づいた時には


もう、子どもは子どもではない。



あれこれと 反省も後悔もあるけれど


その時々で頑張ってきた自分も確かにいる。



そう、人間の可能性は有限なのだ。


無限の可能性を信じて走り続けて


そこに気づく。



きっと それも神さまの宿題なんだね。



このいちごが 来年、実をつけてくれたら


この有限の可能性の1つに


私は感謝できるだろうと思う。