センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 彼らの居場所


もうすぐ夏休みが終わる。


あちこちから 


子どもたちのため息が聞こえてきそうだ。



その憂鬱が 深刻な子どももいるだろう。


どうか その辛さを乗り越えて欲しい。



乗り越えて 乗り越えて 乗り越えて


その先にある光を見つけて欲しい。



学校が全てではない、と大人は言うけれど


子どもの世界はまだ狭い。



子どもにとっては 


それが全てに思えるかも知れない。



勉強はどこでだってできるし


フリースクールも増えている。



でも、私は思う。



何故、学校に行けないのか


行きたくないのか



そこをきちんと大人が知るべきだ。



いじめがあるのなら


それは正されなければならないし



先生に問題があるのなら


そこも正されなければならない。




昔、五味太郎さんの


「大人問題」という本を読んだとき



義務教育というのは


子どもに学校に行く義務があるのではなくて



子どもの教育を受ける権利を守るために


大人にその義務が課せられているのだと


書かれていた。(憲法第26条)



子どもにあるのは


学校へ行く義務ではなくて


教育を受ける権利だ。



そこを大人が間違えてはいけないのだ、と


五味さんらしい書き方をされている。







人生というのは


自分の居場所を探すことなんだ


と五味さんは書かれている。



自分で自分の命を諦めてしまうほど


学校が辛い場所であってはいけない。



だが、その一方で



それなら、学校から逃げればいいと 


大人が言うのは 違うような気がする。



子どもの権利を守るために


子どもの居場所は保証されるべきだ。



子どもが逃げなくてもいいように


大人は 大人がやるべきことを


真剣に考えて



その義務を遂行すべきなのだ。



夏の終わりの憂鬱を


いつか子どもたちが


笑い飛ばせる大人になるまで



その居場所は大人が守らねばならない。




画像 「大人問題」五味太郎より