民衆はしばしば権力者の選択を誤る
新聞に内田樹氏の執筆記事が載っていて、
面白い考察だな、と思った。
内田氏の意見は、しばしば炎上する。
その考え方の良し悪しは
この際、横に置いておく。
今回、内田氏が考察したのは
「大阪の有権者たちは、なぜ維新に
圧倒的な支持を与え続けるのだろう」
ということだ。
内田氏によれば、
コロナ禍で大阪府は死者数ワースト1で、
看板政策の大阪都構想は2度否決された。
その他、どの施策を見ても、
市民府民にとっては行政サービスの
劣化をもたらすものばかり。
にもかかわらず、
大阪では維新は圧倒的な支持を受けて
選挙では圧勝する。
それは、なぜなのか?
という考察なのである。
内田氏は、橋本徹氏が大阪府知事に
立候補した頃のゼミの学生の反応を
書いている。
12人中10人が彼に投票すると答えたのだ。
その理由が
「すぐ感情的になる」(ノ゚0゚)ノ~
「言うことが非論理的 」w(°o°)w
「隣のお兄ちゃんみたいで親しみが持てる」
という答だった、と言うのだ。
つまり、自分たちの代表としては
「自分たちと同程度の人間」が
ふさわしいと考えたのだ、と。
支配者と被支配者の利害が一致することこそ
重要なことなのだから、
優れた統治者より、民意に添う統治者を
選ぶ方が安全だと民衆は考えたのだ、と。
あ〜、だから
「隣のお兄ちゃんみたいな」人が
いいのか…(・o・;)
つまり政治家としての卓越した力があっても
それが民意と相反するのであれば
「隣のお兄ちゃんみたいな」人でいい。
「利己的であったり、嘘をついたり、
弱いものいじめをしたりするのは
誰でもすることである。
誰でもすることをする政治家こそが
民衆の代表にふさわしいというのは
ロジカル的には正しい」
というのが内田氏の理解なのである。
まぁ、いささか皮肉ってはいるのだろう。
私がこれを読んで思い出したのは、
昔、お笑いの世界にいる有名人が、大阪で
知事選に立候補して選ばれたときのことだ。
彼は選挙において、圧倒的に人気が高く
高い得票で当選した。
政治の世界でもそれなりに業績を残したが
セクハラ事件をきっかけにして
政治の世界から身を引いた。
そのセクハラ事件は
非常に下劣で計画的だったこともあり、
当時は連日、メディアを賑わせた。
結局、民事裁判では
わいせつ行為が認められ、被害者への
名誉毀損も含めて
セクハラ裁判では過去最高額の1100万円の
支払いを命じられた。
そして、刑事裁判でも有罪となり、
表舞台から姿を消した。
そのとき、週刊誌がその特集の中で
なぜ、大阪の民衆は
お笑いの世界の人を政治家として
積極的に受け入れたのか、
と考察した。
有名人にはネームバリューというメリットが
あるのは当然のことだけれど
なぜ、政治とは無関係のお笑い界の人を、
圧倒的得票で迎え入れたのか。
これは、大阪特有の現象なのではないかと。
それを大阪に詳しい識者がこう分析した。
大阪の民衆にとって
お笑いの文化というのは絶対的で
その人物が、政治家としてふさわしいかとか
政治家として卓越した能力を持っているのか
とかは二の次なのだ。
大阪にはお笑いの文化が根付いていて
それこそが何にも勝るのだ、と。
そのときには
そんなものなのか、と思ったけれど
内田氏の考察を読んでいると
民意とはそういうものなのか、と思う。
理屈ではなく。
これには、「隣のお兄ちゃんみたいな」人や
お笑い界の人を下に見ているのでは、という
批判も生まれそうだけれど
そこを論点にすると、またややこしいので
そういう差別の問題も横に置いておく。
ゼレンスキー大統領もコメディアン出身だと
揶揄されたけれど、民意を掌握したその力は
そうした批判をねじ伏せたし、
その力が各国の協力を取り付けたわけだが
戦争の是非はまた別の話である。
我が国の政治に対する不信感は大きいけれど
それでも、ここまで権力を欲しいままにさせ
それを見て見ぬふりをしてきたのは
やはり私たちの民意であって、
大阪の民意と、結局は根っこは
いっしょなのではないかと思う。
お笑いが必要なのか、
「隣のお兄ちゃんみたいな人」が必要なのか
「絶対的な安定」が必要なのか…
私たちは私たちの民意について
少し立ち止まって考えてみることも
必要なのではないか、と思うのである。
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