センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 手放す


生きていると たやすく手放せるものと


手放せないものがある。



モノでも人でも。



私の友人のひとりに 


億単位の財産を相続した人がいる。



その億単位の財産を築くために


彼女の父親は 随分敵を作った。



そして、彼女も その財産を相続するために


姉妹や親戚を敵に回した。



彼女の夫は 明るくて、よく働く人だった。



養子に入ったが、


簡単には人を信用しない義父との関係は悪く


友人は間に挟まれて、苦労した。



彼女の夫は転職するが、うまくいかず


心を病んだ。



もともとアルコールが好きな人だったが


おそらく酒量も増え、


家族の関係も悪化していった。



家族は彼に怯えるようになり


彼女は 夫を精神病院につないだ。



家族がどんなに困っていたとしても


よほどの理由がない限り



本人の同意しない入院はできない。



しかし、彼女は必死に訴えて


夫を強制的に入院させた。



もう、この時点で


彼女には夫への愛情がなかった。


子どもたちも離婚を勧めた。



そうして、子どもたちが社会人になると


夫が自ら離婚を口にするように仕向け


電光石火で離婚届を提出したのだった。



彼女は離婚が成立する以前に


長く相続の裁判をしていた。



姉に いっさいの相続をさせない、という


遺言書を父親に書かせていたのだ。



遺留分があるのだから


そんなことは無理な話なのだけれど


彼女は裁判で姉と闘った。



もちろん、


彼女が相続を独占できるわけもなく


ただ、姉や親戚と断絶する結果になった。



電光石火の離婚に持ち込んだのは


こうして手に入れた財産を


夫によって、失くしたくなかったからだ。



アルコールに依存する夫が


もし、事故でも起こしたら、


苦労して手に入れた財産を失うことになる。



けれど、夫は養子なのだから


夫にも相続の権利はある。



だから、彼女は離婚しても


夫と暮らし続けている。



夫が相続した財産の口座から


生活費は落とされる。



こうして書くと


恐ろしく狡猾な女性のように思えるが



私の知る彼女は


おとなしく、謙虚で、控えめな人だ。



何かを守るために


そうではない自分になる必要があったのだ、


と思う。





当時、私は夫と別居を始めていたから


複雑な思いだった。



離婚しても、同居を続ける彼女たち夫婦と


別居しても、離婚しない私たち夫婦。



どちらも、愛情ではない何かで


その形を続けていた。



私の夫は 離婚だけは避けたかった。


愛情がなくても、別居という形をとっても


離婚だけはしたくなかった。



それは、世間体かも知れないし


義父母が亡くなっていたから


手を放されたくなかったのかも知れない。



私の机の引き出しには


使われなかった離婚届の用紙がある。



私が離婚を選択しなかったのは


夫が自暴自棄になることを


恐れていたからだ。



いっしょに暮らしていた最後の方は


私は毎晩、


台所の包丁を別の所に隠してから眠った。



夫はおとなしい、優しげな人に見えたが


人を支配することで、自分を守っていた。



アルコールは 彼の人格も変える。


彼の中の隠れた攻撃性を私は恐れた。



本当は、ものすごく気が小さくて弱い人だが


そういう弱さをアルコールは変えてくれる。



友人が その夫を精神病院に入れたとき


私は驚いたけれど



彼女も 私と同じように


その夫の中の攻撃性に怯えていたのだろう。



彼女は 財産と子どもたちを守るために


いっしょに暮らしながら 夫の手を放した。



私は 離婚という形を取らないまま


夫の手を放した。



手を放したことで


それぞれの夫は 何かを諦め 荒んでいく。



正解はわからない。


そもそも 正解なんてないかも知れない。



私は1枚の紙切れの重さを噛み締めているし


彼女の思いは聞けていない。



たやすく手放した、と思うものが


実は 簡単には手放せないものであったり



手放すことを躊躇したり、


必死に守ろうとしたものが



実は もう自分の掌から


こぼれ落ちてしまっていることもある。



もっと大事な何かを


代わりに失くしていることもある。




人生はままならない。


そういうことを知る旅でもある。