平等とか公平とか
私たちは生まれ落ちたその日から
平等でも公平でもない世の中を生きる。
何かある度に
不平等と不公平を訴えるけれど
私たちが選べるものは限られている。
公平とか平等とか
あたりまえのように言うけれど、
実はそれがいちばん難しい。
大地震でようやく人々の関心が寄せられたが
シリアはもうずっと前から過酷な状況で
ずっと前から支援を必要としていた。
そういう国と地域はあちこちにある。
戦争が始まって1年になるウクライナには
再びその節目に関心が寄せられるが
関心もなくほんの小さくしか報道されない、
幾多の国と地域と 忘れられた人々がいる。
ウクライナもロシアも疲弊しているが
もっと疲弊している民族もいる。
あれから1年になる戦争のために
救援物資も人もお金も
忘れられた人々に回らない。
限られた支援は ひとつ増えた争いのために
渡るべきところに渡らなくなった。
これも戦争の大きな功罪のひとつだ。
生まれ落ちたその日から
平等でも公平でもないこの世の中で
ぎりぎりの命綱さえ
手放さなければならない人々がいる。
この平等でも公平でもない世の中を
構築しているのは私たちだ。
映像にも 活字にもならない現実を
決して見ようとはしない私たちだ。
平等とか 公平とか
簡単に口にできることは
簡単ではない重い現実を背負っている。
だから せめて
戦争は嫌だ、暴力は嫌だ、と言おう。
敵とか味方とか そんな言葉に煽られて
どこかの 誰かの平和を奪ってはいけない。
どこかの 誰かの命綱を奪ってはいけない。
無関心こそが 敵。
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