センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 痛み


今朝、ふと父のことを思い出した。



父のことを思い出すと、なぜだか


「ごめんね」と心の中でつぶやく。



父は前立腺癌だった。


それもたちの悪い癌で、見つかった時には


かなり大きくなっていた。



ホルモン療法が効くけれど、


それも4年で効かなくなる、と言われた。



食事療法、アガリクス、日田の水…


ありとあらゆることを試した。



ありとあらゆることを試して、


それでも本当に4年目で薬が効かなくなり、


別の治療に切り替えた。



そこで使われた薬が合わず、


食べることの大好きな父が食べられなくなり


ほとんどの時間を横になって過ごした。



父が、もう薬をやめたいと言ったとき、


私たちは賛成した。



笑顔が消えて、つらそうな父を見たとき、


これで長く生きられても意味がない、と


思ったからだ。



生活の質、というのは大事だ。


長く生きられることが全てではない。



そうして、投薬をやめ、父は元気になった。


好きなものを食べ、旅行にも何度も行った。



癌に効く、という温泉にも一人で出かけた。


その年の年末にも出かける予定だった。



ある日、父は私に、


時刻表を買ってきて欲しいと頼んだ。



時刻表を見るのが楽しいのだと言って、


真新しい時刻表をながめていた。



しかし、ほどなくして、


父は腰の痛みを訴えるようになった。


我慢強い父が、歩き回って痛みに耐えた。



そうして、いつもお世話になっていた、


整形外科に出かけた。


転移かも知れない、と疑ったのだ。



私たちも祈るような気持ちで送り出した。



そうして、帰って来た父は少し明るく、


先生から転移ではないと言われた、と


報告してくれた。



ホッとした。父の笑顔も嬉しかった。



けれども、お正月を過ぎると、


痛みはさらに増した。転移だったのだ。



結局、それが父の最期のお正月になった。


大好きな5月に父は天に召された。



あの年末、整形外科に向かう車の中で、


父はどんな気持ちだっただろう。



転移ではないように、と祈っていたはずだ。


懸命に不安と闘っていたはずだ。


私たちと同じように。



整形外科医の診断は誤診だったのだろうか。


レントゲンの写真で、医師はもしかしたら、


わかっていたのではないだろうか。



お正月を控えての診察で、全てを理解して


嘘をついてくれたのではないだろうか。



どちらにしても、私は感謝している。



父は、その痛みが転移でさえなければ、


ぎっくり腰であろうと、


たとえ骨折であろうと、良かったと思う。



私たちも、どんな診断が下ろうと、


転移でさえなければ良かった。



望みは叶わなかったけれど、


あの時の父の不安が、いっときだけでも


払拭されたことがありがたかった。



父がいつも座っていた椅子の上には


あの真新しい時刻表が残されており、


それがものすごく悲しかった。



お父さん、ごめんね…


何に対して謝りたいのかわからない。



きっと、必死で我慢していたその痛みと


その不安を本当には理解していなかった。


そのことに対してかも知れない。



何年経っても、やっぱり痛い。



でも、また忘れて生きていく。


明日からまた、頑張るからね。