センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

憐れみは恋の始まり

学生のとき、


哲学の講義を履修していた。



ある日の講義のテーマは



   Pity is akin to love.






「可哀想だたぁ、惚れたってことよ。」



夏目漱石の「三四郎」に出てくるらしく、


教授は名訳だと力説していた。



私は、「坊っちゃん」すら完読できず、


夏目漱石には縁がなかったが、


この言葉だけは覚えている。





別れて暮らす夫とは


滅多に会うこともないが



たまに来る電話やラインに


憂鬱になる私がいる。




彼が


大きなミスをしたとか


体調が悪いだとか


そんなブルーな話にも



慰めの言葉さえ出てこない。




そういう


どうしようもなく冷たい自分と向き合うと


後悔に似た苦い思いが込み上げてくる。






別居を始めて、しばらくしてから


「一緒に暮らさないか」


と、言われたことがあった。



彼は面倒くさいことが嫌いで、


毎日の食事や洗濯にうんざりしていたのだ。



その答は、もちろんNOだったが


彼は


「俺のことが嫌いなんだ。」


と、小学生のように拗ねて言った。



その言葉には


「そんなことないよ。」


と、否定してくれるであろうという


期待が混じっていたが、



それを否定する優しさは



  私には無かった。





憐れみが恋の始まりになるのなら、


憐れみが消えたら


それは、終わりを意味するのだろうか。



もう、答が出ていることに


そろそろけじめをつけなければ、と


鬱々と考える夕暮れ。



「可哀想だたぁ、惚れたってことよ。」



と、ノートに書き込んでいたあの日の私は



こんな日を想像もしていなかったのに。