センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 矛盾 ①



発達障害支援法という法律のおかげで


発達障害という言葉は広く認知され


支援の幅も飛躍的に広がった。



長男が発達障害だったこともあり


そういう子どもたちをサポートできる仕事を


自分に向いている、と思っていた。







初めて 小学校に支援に入った日、


職員室で電話が鳴った。



教務主任が 少しうんざりしたように


その電話を切った後、


教頭と意味ありげに言葉を交わし



その後、



ひとりの女の子の名前を口にして


「お母さんが心配しているので


その子を中心に支援してください。」


と私に言った。




3年生のその女の子は


ひらひらとかわいい服を着ていて


人見知りをすることもなく、


礼儀正しく 私に挨拶をした。



教務主任の口調から


要注意の生徒という印象を受けたが


どこにでもいる普通の女の子で



むしろ


その礼儀正しさは優等生的で


この子のどこに支援が必要なのか、


と私は不思議に思った。



授業中も積極的に手を挙げて


礼儀正しく発言していた。




雲行きが怪しくなってきたのは


それからひと月が経った頃だった。






蒸し暑い季節が苦手だったのか


その子は授業中の集中力を欠くようになり



放課での友達とのトラブルも目立ってきた。



ある日、


自分の隣の席の女の子の机に載っていた、


色鉛筆をその女の子が落としてしまった。



かなり大きな音をたてて落ちたのに


その女の子は 全く無表情で


落としたことすら気づかないようだった。



周りにいた女の子たちが


「落としたよ」とやんわり伝えた。


その女の子が 謝ることも拾うことも


しなかったからだ。



そして その女の子は言った。


    「私じゃない。」


いや、落としたよ、と周りが言うと



ものすごい勢いで


  「私じゃない!私のせいじゃない!」


と叫んだ。



これが この女の子の特徴だった。




スクールカウンセラーによれば


この子はADHDという診断を受けている、


ということだった。



多少の注意欠陥はあったが


多動ということはなく、


安定していれば おとなしく座っていたので


この診断名はしっくりこなかった。



何かに夢中になってしまうと


内側に閉じてしまい、


頭は全く別の世界を自由に飛び交ってしまう


そんな女の子だった。






とても残念なことに



担任の先生は発達障害に理解がなく、


ほかに5人ほどいた発達障害の子たちを


毎日、目の敵にしていた。



算数とか 社会とか


そういう授業はわかりやすかったが



図工とか 体育とかは 苦手だったのか


子どもへの説明に 言葉が足らなかった。



運動会の練習で


2列から4列へと隊列を変える、ということが


このクラスはなかなかできなかった。



こんな単純なこともできない、と


その先生は馬鹿にしたように


何度もやり直しをさせたが



いつまでたっても できなかった。



何故かと言うと



先生が間違えて 指導していたからだった。




この先生もまた


私から見るとグレーゾーンの様な気がした。



やらなければならない仕事がいつも遅く


学年主任は常にイライラしていたし、


職員室で 教務主任や管理職から


厳しく注意されることも多かった。



何がまちがっているのか、


何を優先させなければいけないのか、


そういうことが理解できないようだった。



このクラスが


秋をすぎる頃には


あっという間に問題クラスになり



あっという間に


学級崩壊へと進んでいったのだった。