センチメンタル同盟

頭と身体の衰えが一致しない私の老いへの初めの一歩

 風になりたい



私には 特に信心している宗教はない。




父は 誰の言葉なのか



「死者は生者を煩わすべからず」



と、よく言っていた。



当時、親戚に 長と名のつく役職の人がいて



そのために 葬儀に出ることも多く




ある雨の日、



これから 葬儀に向かう、というその人は



「こんな日に死にやがって」



と、迷惑そうに言っていた。




それが父には強烈に頭に残り



そう思うような人に葬儀に来てもらうことを



疑問視していた。







だから



「死者は生者を煩わすべからず」



 に繋がったのだろう。





シルクロードの旅が好きだった父は



自分が死んだら



ガンジス川に散骨してもらいたいなどと



母に言っていたようだった。





「千の風になって」という歌が流行ったのは



父が亡くなった後だったが



この歌を聞いたら きっと賛同しただろう。







義母が亡くなって、葬儀の終わった夜




自分たちのときはどうするかを



夫と話し合った。




私たちは互いに 葬儀にもお墓にも



大きな意味を見いだせずにいた。





義父母は 永代供養でお墓はない。



父も お墓はない。



母も兄も 父と共に 



散骨してもらいたいと 望んでいる。






同じように



私も息子たちと話をした。



夫はお墓にも 仏壇にも興味がなかった。





納骨はどうするのか。





次男は 夫が生まれた遠い故郷の海に



散骨プランを見つけた。



調べると 海外で散骨するプランもある。



散骨もインターナショナルなのだ。





私は 自然に囲まれた土地に



樹木葬のプランを見つけた。石材も込みだ。



次男と見学に行こうと思っている。








私は お墓に入りたくない。



遺影なんて飾らないで欲しい。



散骨でも 樹木葬でも どんな形でも



きれいに 消えて無くなりたい。





思い出は 消えたりしない。



あとに残る人が 覚えている限り



その人の心に 生き続ける。




後悔も 反省も 心残りも



何かで 帳消しにできるわけではない。



生きている者も そうでない者も。








   生きている限り どんな思いも



   背負って生きていく。





    

     そして




  そのときが来たら きれいに消えて




      風になりたい。